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今は亡きビスタⅡ世や初代あおぞら号、羽根型特急マークのスナックカー等、懐かしい画像ありがとうございます。この付近はかつて近鉄が地滑りに泣かされ、線路の付替えや徐行運転を余儀なくされていましたが、新玉手山トンネルの開通で徐行運転が解消されました。
関西の私鉄は車両を大事に長く使う鉄道会社が多いですが、それでも子供の頃に当たり前に見ていた車両が随分と無くなっているこたに気付かされます。
懐かしい写真、ありがとうございます。10100系有りし頃中学生だった私は父とこの場所で「撮り鉄」を楽しんだことを思い出しました。この付近は地盤が不安定な地域とかで、西名阪高速の建設時に地滑りが発生し、元の近鉄大阪線が仮線への移動を余儀なくされたもので、本映像の「休線」が本来の大阪線で「旧線」が仮線というわけです。(旧線の架線柱が木製なのに注目です)1976年当時の車両はほとんど姿を消しましたが、2410系、2610系は改造されて現在も活躍中なのは驚異というか整備の良さに脱帽ものですね。長文うんちく失礼しました。
旧線が仮線だったとは知りませんでした。恐らく貴殿とほぼ同世代ではないかとおもいます。当時ここで撮影した理由をよく覚えていないのですが、なにか不思議な風景であった理由をやっと知ることができました。ありがとうございました。
昔、大阪線に乗った時に夜でしたが、3、40キロくらいでここを通過しました。奈良方を見て右側を向いて立っていたのですが、仮設線路がドアの窓から見えてました。
他の方の書き込みにもありましたが、左側の鉄柱と単線は本来の本線ですね。今はこの部分の一部が国道の拡張用地に使われています。ここの地滑り地域はJR大和路線、亀の瀬の地滑り地域と地盤が同じなんだそうです。なので大規模な路線変更が行われています。
そうなんですね、亀の瀬の地滑りの話は知っていたのですがここもそうなんですね。
先の方も書かれていましたが、地滑りでやむを得ず新線を引いたと昔聞いた事があります。旧のトンネルやレールも一部のこっていましたね、今はどうか分かりますんが…75才の老人です🍀
旧線というか仮線時代は徐行運転を強いられていたのを思い出します。国土地理院の航空写真で確認すると1967年当時は元々の線路(休線?)で、1971年の写真では仮線が設置されているのを確認できました。休線?は川を避けていたのが、仮線は川を2回渡る必要があったり、木製の架線柱だったことから長期使う予定はなかったのでしょうけど、結局新線に切り替わるまでは20年以上を要したわけですね…。そういえば、大阪教育大学前駅が開設されてから新線に切り替わるまでは1年近く間があり、その間はホームが一部仮設だったのを覚えています。
懐かしい写真と比較の現在の動画、有難うございます。あの写真では急行にはあの名車両2200系に代わって2610系に置き代わっていた頃なのですね、しかもその2610系、今も現役とは、何かすごいとしか言えませんね📸
貴重な教育前の写真アップありがとうございます
西名阪道は1968年に開通していたからあまり変わらないが、近鉄大阪線は平成になってから大阪教育大前駅の開業でかなり変わりました
C編成のビスタカーが後ろは、12200系2連。
大教大が出来る前のルートが思い出せない…😢
コレ、10100系ビスタカーと12200系の併結運転か!!分かりにくい。
2枚目の写真が10100系ビスタカーと12200系コレは分かる!!!
コレ、ガチでスマホじゃ分かりにくい写真やわ!!!
2410系の後ろは2050系ね!!!
2050系は1983年登場です
そや、そや、そやったな~昭和63年まではワシ通勤しよったけど、まだこないやったで。大学が出来る計画はいつからあったんでおます?
実は大阪教育大学の統合(池田・天王寺・平野に分かれていた)と移転はかなり前から計画されてました。まず吹田に広大な空き地があるので候補地になったのですが大阪大学の医学部と反大病院の移転先になったため、箕面の粟生間谷に行こうとしたのですが大阪外国語大学に取られてやむなく柏原に統合移転しました。昭和50年代初頭にはすでに柏原への移転が決まっていたのですが、じゃあ駅はアクセスはでかなり揉めた(勿論近鉄にも駅作れワレと申し入れた)様で、近鉄は駅を作るならこれ幸いで線路も新線作ろうぜとなって今の線路になったそうです。移転が決まった頃鉄道ファンはどういうダイヤにするのかなと予想していた様です。
@@ikedasatsuki 大阪教育大の附属高校は、旧キャンパスの跡地に残ったままですね。
今は亡きビスタⅡ世や初代あおぞら号、羽根型特急マークのスナックカー等、懐かしい画像ありがとうございます。
この付近はかつて近鉄が地滑りに泣かされ、線路の付替えや徐行運転を余儀なくされていましたが、新玉手山トンネルの開通で徐行運転が解消されました。
関西の私鉄は車両を大事に長く使う鉄道会社が多いですが、それでも子供の頃に当たり前に見ていた車両が随分と無くなっているこたに気付かされます。
懐かしい写真、ありがとうございます。
10100系有りし頃中学生だった私は父とこの場所で
「撮り鉄」を楽しんだことを思い出しました。
この付近は地盤が不安定な地域とかで、西名阪高速の
建設時に地滑りが発生し、元の近鉄大阪線が仮線への
移動を余儀なくされたもので、本映像の「休線」が
本来の大阪線で「旧線」が仮線というわけです。
(旧線の架線柱が木製なのに注目です)
1976年当時の車両はほとんど姿を消しましたが、
2410系、2610系は改造されて現在も活躍中なのは
驚異というか整備の良さに脱帽ものですね。
長文うんちく失礼しました。
旧線が仮線だったとは知りませんでした。恐らく貴殿とほぼ同世代ではないかとおもいます。当時ここで撮影した理由をよく覚えていないのですが、なにか不思議な風景であった理由をやっと知ることができました。ありがとうございました。
昔、大阪線に乗った時に夜でしたが、3、40キロくらいでここを通過しました。奈良方を見て右側を向いて立っていたのですが、仮設線路がドアの窓から見えてました。
他の方の書き込みにもありましたが、左側の鉄柱と単線は本来の本線ですね。今はこの部分の一部が国道の拡張用地に使われています。
ここの地滑り地域はJR大和路線、亀の瀬の地滑り地域と地盤が同じなんだそうです。
なので大規模な路線変更が行われています。
そうなんですね、亀の瀬の地滑りの話は知っていたのですがここもそうなんですね。
先の方も書かれていましたが、地滑りでやむを得ず新線を引いたと昔聞いた事があります。旧のトンネルやレールも一部のこっていましたね、今はどうか分かりますんが…75才の老人です🍀
旧線というか仮線時代は徐行運転を強いられていたのを思い出します。
国土地理院の航空写真で確認すると1967年当時は元々の線路(休線?)で、
1971年の写真では仮線が設置されているのを確認できました。
休線?は川を避けていたのが、仮線は川を2回渡る必要があったり、
木製の架線柱だったことから長期使う予定はなかったのでしょうけど、
結局新線に切り替わるまでは20年以上を要したわけですね…。
そういえば、大阪教育大学前駅が開設されてから新線に切り替わるまでは
1年近く間があり、その間はホームが一部仮設だったのを覚えています。
懐かしい写真と比較の現在の動画、有難うございます。あの写真では急行にはあの名車両2200系に代わって2610系に置き代わっていた頃なのですね、しかもその2610系、今も現役とは、何かすごいとしか言えませんね📸
貴重な教育前の写真アップありがとうございます
西名阪道は1968年に開通していたからあまり変わらないが、近鉄大阪線は平成になってから大阪教育大前駅の開業でかなり変わりました
C編成のビスタカーが後ろは、12200系2連。
大教大が出来る前のルートが思い出せない…😢
コレ、10100系ビスタカーと12200系の併結運転か!!分かりにくい。
2枚目の写真が10100系ビスタカーと12200系コレは分かる!!!
コレ、ガチでスマホじゃ分かりにくい写真やわ!!!
2410系の後ろは2050系ね!!!
2050系は1983年登場です
そや、そや、そやったな~
昭和63年まではワシ通勤しよったけど、まだこないやったで。
大学が出来る計画はいつから
あったんでおます?
実は大阪教育大学の統合(池田・天王寺・平野に分かれていた)と移転はかなり前から計画されてました。まず吹田に広大な空き地があるので候補地になったのですが大阪大学の医学部と反大病院の移転先になったため、箕面の粟生間谷に行こうとしたのですが大阪外国語大学に取られてやむなく柏原に統合移転しました。昭和50年代初頭にはすでに柏原への移転が決まっていたのですが、じゃあ駅はアクセスはでかなり揉めた(勿論近鉄にも駅作れワレと申し入れた)様で、近鉄は駅を作るならこれ幸いで線路も新線作ろうぜとなって今の線路になったそうです。移転が決まった頃鉄道ファンはどういうダイヤにするのかなと予想していた様です。
@@ikedasatsuki 大阪教育大の附属高校は、旧キャンパスの跡地に残ったままですね。